■仏教の流れ


聖徳太子と仏教

 日本の仏教は、聖徳太子(574〜622)によってその基礎が据えられたとされる。太子は、仏教思想を非常に深く受容し、これを治世にも活かしたといわれている。太子はまた、法隆寺や四天王寺などを建立している。法隆寺は、その後、長く法相宗の学問道場としての役割を果たしてきたが、今日では法相宗から独立し、聖徳宗を形成している。四天王寺は、戦前まで天台宗に属していたが、戦後独立し、和宗を形成している。

奈良仏教

 さて、奈良時代に入ると、遣唐使によって唐から輸入された学問仏教が奈良の諸大寺院で学ばれた。これは一口に南都六宗といわれており、三論・成実・倶舎・法相・華厳・律の6宗をいう。このうち法相宗とは、インドに由来する唯識教学を研究する学派で、今日、興福寺と薬師寺を二大本山とし、その伝統を伝えている。また、華厳宗は、東大寺を大本山とし、中国の賢首(げんじゅ)大師法蔵が華厳経に基づき大成した華厳教学を研究する学派である。東大寺には、752年、華厳経の教主・毘盧遮那(びるしゃな)仏をかたどる大仏が建立され、東大寺を総国分寺とする国分寺の組織も整備された。総じて、奈良仏教は、鎮護国家的性格を有していた。なお、754年、唐から鑑真(688〜763)が来朝し、授戒の制を確立した。鑑真の開創した寺院が唐招提寺で、今に律宗を伝えている。

平安仏教

  平安仏教を代表するものとしては天台宗と真言宗とがある。

●天台宗
 天台宗の開祖は、伝教大師・最澄(767〜822)である。最澄は天台教学を究め、さらに密教と禅と律の伝授も受けて帰朝し、806年、円(天台教学)・密・禅・戒・の四宗を綜合する天台法華宗を開創した。天台教学は法華経に基づくものであり、あらゆる人々は仏となる困(仏性)を有しているという一乗思想のほか、三諦円融(さんたいえんにゅう)の教え、一念三千の教えなど非常に高遠な思想を有している。と同時に、心を統一しつつ自己と存在の実相を観察する“止観”を中心とした実践行も重視し、教観双修を標榜する。天台宗には、峰々を毎日歩きまわる回峰行、長い年月山に籠る籠山(ろうざん)行など極めて厳しい行が伝わっており、今に、これを修する人が絶えない。なお、最澄は戒に関して特に大乗の立場での戒を主唱し、日本仏教における戒観の基礎を築いたことも忘れることはできない。このほか日本の天台宗はもとより密教を含んでいたが、その後真言宗の影響を受けたり、円仁(794〜864)、円珍(814〜891)が出てさらに密教化し、真言宗の東密に対し台密と呼ばれる密教を栄えさせた。

  天台宗の総本山は比叡山延暦寺である。天台宗からの分派としては、円珍門下の余慶が三井の園城寺に拠ったところから始まる天台寺門宗、戒称一致(大乗円頓戒と称名念仏を統合)の教学を唱えた慈摂(じしょう)大師真盛(しんせい)による天台真盛宗などがある。なお、戦前、四天王寺や鞍馬寺、浅草寺は天台宗に編入されていたが、戦後いずれも独立して一派を形成した。

●真言宗
  真言宗の開祖は弘法大師・空海(774〜835)である。空海は唐で恵果より真言密教を学び、ことごとく秘法を伝授されて帰国し、真言宗を開いた。823年には、嵯峨天皇から東寺を賜って皇城鎮護の道場とし、835年、高野山で入定(入寂)した。この間、布教活動とともに福祉的活動や橋をかけるなどの社会事業にも尽力した。密教というのは、歴史上の釈尊が説いたとされる顕教に対するもので、法身仏(いわば絶対者)である大日如来が、直接説いた教えという。生きとし生けるものは、宇宙の根源的な生命である大日如来の顕現であり、我々も身・口・意の三密行の実践により即身成仏することができると説く。そのほか具体的な行として阿字観などがあり、また諸尊の加護を求めて加持祈祷がしばしば修される。曼茶羅は密教の悟りの世界=宇宙の大生命を象徴的に図画でもって示したものであり、かつ現実世界がそのまま理想世界であることを示すものである。また、高野山は、弘法大師・空海の入定の地であり、大師の救いを信じて南無大師遍照金剛と唱える大師信仰の中心となった。この高野山金剛峯寺を総本山とする高野山真言宗は真言宗団の中でも最大の宗団である。また、真言宗は皇室と緑が深く、大覚寺、仁和寺等の門跡寺院が多くあり、それぞれ一派を形成している。

  12世紀には、覚鑁(かくばん)(1095〜1143)が出て密教と高野山の復興につとめた。覚鑁は金剛峯寺と大伝法院の座主を兼任するなどしたが、金剛峯寺勢力と折り合わず、高野山を離れて根来(和歌山県)に本拠を置いた。その後、頼瑜(らいゆ)(1226〜1304)が出て大伝法院を根来に移し、新義真言宗として独立した。根来寺が豊臣秀吉に焼かれると、専誉(せんよ)と玄宥(げんゆう)の二人の能化は、それぞれ大和長谷寺、京都智積(ちしゃく)院に移り、現在の真言宗豊山派と真言宗智山派の基を据えた。

●修験道
  平安末には日本古来の山岳信仰が仏教、道教、シャーマニズム、神道などと融合して、修験道という一つの宗教体系を作り上げた。中世期、大峰山では、吉野・熊野を拠点として修行が行われ、熊野側では聖護院(しょうごいん)を本山とする本山派が、吉野側では大和を中心に当山派が形成された。江戸時代には両派が認められていたが、明治政府により神仏分離政策がとられ、明治5年、修験道は一宗としては廃止され、本山派は天台宗に、当山派は真言宗に組み込まれるかたちとなった。現在は独立して本山修験宗、真言宗醍醐派、金峰山修験本宗、修験道などとなっている。

鎌倉仏教

 鎌倉時代には多くの宗派が生まれている。平安末から鎌倉時代にかけては政治の実権が貴族から武士へと移る転換期であり、その一方、天災・飢饉・戦乱などによって民衆の苦悩は深まっていった。しかも仏教史観によれば、末法の時代でもあった。そうした中で貴族階級中心の平安仏教に代り、民衆の救いへの願いに応える仏教が生まれたのであった。

●浄土宗
  浄土宗系の教団で宗祖とされている法然(1133〜1212)は初め比叡山に上り、次に南都に遊学し、諸宗の奥義を究めたが満足できず、ついに中国の善導大師の『観経疏』の一文に触発されて、専修念仏を唱導する浄土宗を開創した。すなわち、この末法の時代には阿弥陀仏の御名を称えることによって極楽浄土にひきとっていただき、そこでやがて悟りを開く方がふさわしいと、専ら念仏の易行のみを修する立場を選択したのであった。この他力易行としての念仏は、愚人、悪人こそが救われる道として、当時の民衆に大きな影響を与え、法然のまわりには貴族から遊女らに至るまで集まった。しかし、従来の諸宗は伝統的な仏教を否定するものとして反発し、朝廷に念仏停止(ちょうじ)の令を発するように働きかけた。結局、法然は、土佐(実は讃岐)流罪に処せられ、高弟らも、死罪や流罪に処せられた。

  現在の浄土宗は、法然の高弟のうち特に九州地方で活躍した弁長(1162〜1238)の鎮西流を中心とする宗派である。第3祖の良忠(1199〜1287)は主に関東を中心に伝道しその門下からさらに全国に弘まった。法然の高弟の一人証空(1177〜1247)の門流は、現在、西山三派といわれている。

●浄土真宗
 浄土真宗の宗祖は親鸞(1173〜1262)である。親鸞は初め比叡山で修行に励んだが、29歳の時、京都六角堂に参籠したおり、聖徳太子の夢告を得て、法然の下に参じたといわれる。やがて法然の高弟の一人となり、法然が四国流罪とされたときには越後流罪に処せられた。その後、関東で教えを弘め、晩年には京都に帰ったが、手紙(消息)により関東の門弟を指導し続けた。親鸞は、法然の唱導した浄土門の念仏の教えこそ真実の教え(=浄土真宗)であると考えていた。もっとも親鸞の立場はむしろ信心に徹底し、信が定まったときに必ず仏となる者の仲間(正定聚という)に入る、すなわち、浄土往生以前にこの世で救いが成就する(現世正定聚)とされた。しかもその「信心」も「念仏の行」も、如来より施与(廻向)されたものとされ、絶対他力の教学を完成した。晩年には自然法爾(じねんほうに)と述べている。なお、親鸞は妻帯も仏道を妨げないことを唱え、非僧非俗と称し、出家教団とは異なる教団を形成した。

  現在、真宗教団で最も大きなものは、、浄土真宗本願寺派(西)、真宗大谷派(東)の東西本願寺教団である。本願寺は元来、親鸞の廟堂であり、親鸞の子孫が管理した。三代覚如(1270〜1351)の時、本願寺となり、第8代の蓮如(1415〜1499)は活発に布教活動を展開し、今日の大教団の基礎を築いた。なお、東本願寺は、徳川家康が当時現職を離れていた教如(光寿)に施与したもので、それ以前からあった本願寺を西として、東西両本願寺が並び立つこととなった。

  そのほか浄土系の宗派の代表的なものとして融通念仏宗と時宗の二宗がある。

●融通念仏宗・時宗
 融通念仏宗は良忍(1072〜1132)が開祖である。良忍ははじめ天台宗を修めたが、比叡山を下り、46歳のときに阿弥陀如来より「自他融通の念仏」を受け、融通念仏宗を開いたという。自他の念仏が相互に力を及ぼしあって浄土に往生すると説いている。良忍はまた、天台声明の中興の祖としても有名であり、大念佛寺を総本山としている。

 時宗の開祖は一遍(1239〜1289)である。一遍は証空門下の聖達に学び、後に熊野本宮で神勅を得るなどして自らの教学を形成した。一遍は捨聖(すてひじり)といわれ、遊行(ゆぎょう)をこととし、彼の門弟も一遍に従って諸国を遊行した。また念仏を称えた人には算(さん)という念仏の札を与えた(=賦算)。その宗団は、初め、時衆と呼ばれ、室町時代にかけて大きく成長した。清浄光寺(遊行寺)が総本山である。

●禅宗
  鎌倉時代に成立した禅宗に、臨済宗と曹洞宗がある。

  臨済宗は中国で成立した禅の一派で、禅匠臨済義玄の禅風を伝える宗派である。日本には栄西(1141〜1215)が宋より伝えた。ただし、現在に伝わる臨済宗各派のほとんどは、鎌倉末期から室町期に活躍した大応国師(南浦紹明 なんぽじょうみょう)、大燈国師(宗峰妙超 しゅうほうみょうちょう)、関山慧玄といういわゆる応燈関の流れである。さらに江戸時代には白隠(はくいん)(1685〜1768)が出て、これを中興した。禅とは精神統一の状態を意味する禅那(ぜんな)の語に由来する。すなわち、坐禅を組んで精神統一の状態に入り、自己の本性を見徹し、悟りを開くことを目的としている。その悟りの境地は、言葉によって説明することはできず、師と弟子の間で心から心へと伝えられる(不立文字 ふりゅうもんじ、教外別伝 きょうげべつでん)、という。また、古来、禅僧には、その悟りの立場から発する奇抜な言動が禅問答として遺されているが、それらは後に禅の学人にとって自らの修行を深めるよすがとして活かされるようになった。これを公案(こうあん)という。白隠禅は公案による禅修行を主体としている。

  臨済宗の中で最も大きな宗団は臨済宗妙心寺派である。妙心寺の開山は関山慧玄(1277〜1360)で、室町時代に雪江宗深によって全国的な広がりをもつ一派となった。その他、主な大本山とその開山を挙げると、建仁寺は栄西、南禅寺は無関普門(1212〜1291)、天龍寺は夢窓疎石(1275〜1351)、大徳寺は宗峰妙超(大燈国師)(1282〜1337)、建長寺は蘭渓道隆(宋1213〜1278)、円覚寺は無学祖元(宋1226〜1286)、また、相国寺は夢窓疎石を開山、春屋妙葩(みょうは)(1311〜1388)を二世とし、各本山ごとに宗派を形成している。

  臨済禅は武士階級に好まれ、また、絵画(水墨画)、演劇(能)、茶道等、中世の文化に非常に大きな影響を与えた。

  なお、江戸時代、明の禅僧・隠元(いんげん)(1592〜1673)によって臨済禅がもたらされたが、現在、黄檗宗として伝えられている。京都宇治の黄檗山万福寺を本山としている。

  曹洞宗は、やはり中国の曹洞宗の禅を、道元(1200〜1253)が入宋して伝えたものである。道元は初め、比叡山に上り修行し、その後、栄西にまみえて禅を修するようになった。さらに宋に渡って禅宗諸師に遍参し、ついに天童如浄の下に、「身心脱落(しんじんだつらく)、脱落身心」と大悟し、印可を受けた。帰朝したが、旧仏教の圧迫を受けたり、幕府にも受け入れられなかったりしたため、越前に移り、永平寺を開き、弟子の育成に尽力した。

  曹洞禅は臨済禅と考え方がやや異なり、公案は用いず、只管打坐(しかんたざ)、ただ坐るということを重んじている。坐禅は仏のはたらき、仏の活現に他ならないということで、これを「本証の妙修(ほんしょうのみょうしょう)」という。また、曹洞宗では、「行持綿密」、「威儀即仏法」といって日常生活の微に入り細にわたって綿密な規定がなされている。

  道元の家風は、極めて厳格で、格調の高いものであり、一般に広まる性格のものではなかったが、その門下の第四祖、瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)(1268〜1325)が禅を大衆化し、現在の大教団の基礎を築いた。瑩山紹瑾は、石川県の能登に総持寺を開創したが、これは明治に入って火事にあい、横浜の鶴見に移っている。現在、曹洞宗は福井の永平寺と鶴見の総持寺の二大本山制をとり、道元を高祖、瑩山を太祖として尊崇している。

●日蓮宗
  日蓮宗は、日蓮(1222〜1282)を宗祖とする。日蓮は初め、清澄(きよすみ)山に登って仏教を学び、後、比叡山で天台教学を究めるなどし、故郷(千葉)に帰り、建長5年(1253)、清澄寺で南無妙法蓮華経と高唱したのが開宗とされる。その後、鎌倉を中心に布教活動を展開し、幕府に対して法華経に帰依すべきことを訴えたが聞き入れられず、そのことにより数々の法難を受けた。佐渡に流されるが、やがて許されると身延(みのぶ)山に入り、そこで専ら法華経の宣揚と道俗の訓育に当たった。7年間ほどして病いを得て身延山を下り、常陸に療養に向かう途中、立ち寄った池上で示寂した。

  日蓮宗では、南無妙法蓮華経の題目(経の題名)を唱える唱題を説くが、それは、法華経こそが釈尊の悟りのすべて、すなわち宇宙の実相を表しており、しかも「妙法蓮華経」の題目は、単に名称ではなく、法華経の説く内容、つまり仏陀の証悟の世界そのものである、と日蓮が見出したからである。なお、日蓮は、南無妙法蓮華経を中心に、諸仏諸尊を回りに配した図によって末法の衆生を救済するという釈尊の本壊をを顕わしたが、その図顕の大曼茶羅(まんだら)も本尊として礼拝の対象としている。

  現在、日蓮系の教団には、身延山を祖山とし、池上本門寺に宗務院を置く日蓮宗を初め、顕本法華(けんぽんほっけ)宗、法華宗(本門流・陣門流・真門流)、本門法華宗等々、種々の宗派がある。ここには、法華経に対する解釈の相違が介在している。なお、日蓮の寂後、身延の御廟は日蓮の定めた六老僧が管理したが、その中の一人、日興(1246〜1333)の流れを汲むのが日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)であり、富士の大石寺に拠っている。

新しい仏教教団

 天台系に属する主な教団に、念法真教、孝道教団などがある。念法真教は、大正14年、教祖小倉霊現(おぐられいげん)(1886〜1982)が阿弥陀仏の啓示を受けたのを機に、天台宗所属の教会を開いて宣教していたが、昭和22年、別派独立したものである。孝道教団は、昭和11年、岡野正道(おかのしょうとう)(1900〜1978)及びその妻貴美子(1902〜1976)が、霊友会より独立し、宗教結社孝道会を結成したのに始まる。

  真言系の主な教団に、解脱会、真如苑などがある。解脱会は、真言宗醍醐派で修験を修めた岡野聖憲(おかのせいけん)(1881〜1948)が、昭和4年、解脱精神を唱導する団体を結成したのに始まる。真如苑は、真言宗醍醐派で修行した伊藤真乗(いとうしんじょう)(1906〜1989)が、後、醍醐派を離れ、昭和23年、まこと教団を設立、その後、現名称に改められたもので、涅槃経を所依の経典としている。

  日蓮系には、新宗教団体が非常に多い。本門仏立宗は、本門法華宗で出家したが、後、還俗した長松清風(1817〜1890)が安政4年(1857)、仏立講と称する講を起こしたのに始まる。法華宗に所属して活動したが、戦後、昭和21年、独立して本門仏立宗と称した。

  霊友会は、小谷喜美(1901〜1971)、久保角太郎(1892〜1944)によって始められたもので、法華経信仰を基盤とした祖先崇拝が基本となっている。この霊友会から、昭和10〜13年頃、孝道教団、立正佼成会などが独立し、さらに戦後、昭和25〜26年頃、妙智会教団、法師会教団、仏所護念会教団、正義会教団などが独立した。そのほか、妙道会教団、大慧会(だいえいかい)教団なども、霊友会から独立した教団である。立正佼成会は、長沼妙佼(1889〜1957)、庭野日敬(1906〜)らによって始められたもので、当初は、霊友会とほぼ同様の信仰形態であったが、その後、原始仏教、大乗仏教の教理を大きく採り入れ、近年は、宗教協力等に力を入れている。なお、創価学会は、1930年、牧口常三朗(1871〜1944)によって設立された在家信者団体である創価教育学会が母胎であるが、牧口は自らの教育理論の確立のために日蓮正宗の信仰を採り入れ、その後次第に信仰を中心とする団体に発展したものである。


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